大学生になって、中学の時に買った自転車をもう一度ひっぱり出してくるようになりました。
田んぼの細い道や住宅地の間を走ると、ふとしたその景色の中に、文学作品で見た情景をうっすら重ね合わせようとする自分に出くわしたりします。
国木田独歩『武蔵野』
宮代の屋敷林や鎮守の森をつたい走っているときはまさにこんな感じ。
屋敷林の木影の恩恵を受けつつだらだらと進んでゆきます。
でも、「こんな景色が宮代町にもある」と言われても何一つ驚きはしないでしょう。
そういえば、偶然にも私と同じ境遇のひとを見つけてしまいました。
それも文学作品の中に。
清三は日課点の調べに厭きて(あきて)、風呂敷包の中から「むさし野」を出して清新な趣味に渇した人のように熱心に読んだ。「忘れ得ぬ人々」に書いた作者の感慨、武蔵野の郊外をザッと通る林の時雨、水車の月に光る橋の畔に下宿した若い教員、それ等はすべて自分の感じによく似ていた。彼はおりおり本を伏せて、頭脳に流れてくる感興に耽らざる(ふけらざる)を得なかった。
田山花袋『田舎教師』十七 |
花袋といえば、『蒲団』というセンセーショナルな作品の印象が強いですが、彼も私と同じように、独歩の『武蔵野』に感化されつつ関東平野の人々の暮らしと風景を好んで書いたのでしょう。
独歩の描く関東平野の景色を愛した文豪。もしかしたら当時は数多くいたのかもしれません。でも今の関東平野はすっかり様変わりしています。
『武蔵野』と時代を超えた自らの地を交互に思いはせて、、、
『武蔵野』にみる関東平野の世界は『田舎教師』で普遍化された訳ですが、その世界は宮代町の風景にも溶け込んでいます。
今もなお、きっと。
田山花袋『田舎教師』五十
栗やナラといった、この辺りの雑木林を構成する広葉樹、民家の垣根には人の食生活とともにある柿や梅。
その光る深緑から鮮やかなサルスベリの花がときどき覗いていたりして。
こうやって文章に起こすと、いつも半分の目で見ていた風景が、ちょっとずつ、めくるめいていく。
風の波紋が広がる緑の稲穂たちは、まるで海のような表情を見せる。小さくも豊かに盛り上がった屋敷林や鎮守の森。
それらは島のように、田の上をぽつぽつと浮かんでいて、鳥たちも私も、それらの島を渡って移動している。
夏には下へ迫る雲、円い青空、セミたち、草木の発する強い香り、蜃気楼、せめぎ合う空気の中に酔いそうになる。
林から来る生ぬるい風に身体を手向ける。隣の家の風鈴が小さく響く。
夕方になると、家々の白茶けた壁はうっすらとオレンジ色にそまる。
遠くの秩父の峰は、この町の生活の影に引き寄せられてひとつになっていく。
……中略……雨戸を一 枚明けたところから、緑を濾した(こした)すずしい夜風が入って、蚊帳の青い影が微かに動いた。 かれは真中に広く蒲団を敷いて、闇の空にチラチラする星の影を見ながら寝た。 母親が階子を上って来て、明放した雨戸をそッとしめて行ったのはもう知らなかった。
田山花袋『田舎教師』五十 |
そして、虫の声の点滅の中に、私はゆっくりと眠りにつく。
この町は緑と人々の暮らしが、なんだかとても近くて。
なにより、今も変わらず、緑と人々がふんわりと結びついているのを感じるのです。
【編集後記】 宮代町の情景から文学作品を思い浮かべて頂けましたか。 遠くの観光地や雄大な景色ももちろん素敵ですが、身近な場所にもたくさんのワクワクや発見があります。 |
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