宮代町のイメージカラーである“紫色”は町の特産品「巨峰」がもとになっています。巨峰の栽培が始まったのは昭和30年代、今から60数年前です。そこには、どんなに「無理だ」と言われても「どうしても巨峰を育てたい」と未知の分野に挑戦したある一人の農家と、その想いに呼応した仲間達がいました。今回は宮代町で最初に巨峰栽培を始めた和戸地区の「巨峰はじめて物語」をご紹介します。
どうしても巨峰を育てたい
和戸地区周辺はもともと左沼という沼だったため土地は粘質で、麦も野菜も育ちません。当時の農家は米と麦の生産で生計を立てていたため、農家の生活は苦しかったと言います。
そんな時、小林常勝さん(故人)が農業雑誌に載っていた巨峰の記事を読み、『巨峰は露地でも栽培できる』という一文に希望を見出しました。白岡市や久喜市では梨が栽培されていたので、今から梨を始めても高くは売れません。そこで小林さんは巨峰に挑戦したいと思ったそうです。
小林さんはいろいろな文献を調べたり、埼玉県園芸試験場に足を運んだりして栽培方法について指導を受けました。しかし、指導員には、「巨峰栽培は安定性がないから止めた方がいい」と言われました。それでも小林さんの巨峰への熱意に打たれ、久喜市で先駆的に巨峰栽培を成功させていた野口長左衛門さんという方を紹介してくださったそうです。
早速、野口さんを訪ねた小林さんに「一人には教えない。教えて欲しければ何人かで来なさい」と野口さんは言ったそうです。なぜかというと巨峰栽培は大変難しく、利益だけを目的として出来ることではないというのです。また栽培に成功したとしても、販路を確保したり輸送したりというのは一人でやるよりも仲間でやったほうがいいということで、販売を見据えてのアドバイスをくれたのでした。
話を地元に持ち帰った小林さんは、近隣の農家40軒を集め話し合いをしましたが、必ず成功するという保証はなく、なかなか話はまとまらなかったそうです。話し合いは2年近くかかりましたが、小林さんの熱心な呼びかけに最終的に12軒の農家が賛同し組合を作りました。そして野口さんの指導のもと、巨峰栽培が始まりました。
助け合いの気持ちで乗り越える
今でも和戸地区には昭和30年代に植えた巨峰の木が残っています。幹の太さから時の流れをうかがい知ることができます。たわわに実ったぶどうの枝を支えるための棚。一番大変だったのはこの棚作りでした。スコップで1メートル四方の大人がすっぽり入れる深さの穴を掘ってコンクリートを敷いて支柱を建て埋め戻すのです。この穴をいくつも掘りました。
今では重機を使ってできる作業ですが、当時はすべて手作業で大変な労働でした。その苦労を支えたのは家族に負担をかける出稼ぎをやめ、「もっといい暮らしを手に入れたい」という必死の思いだったのではないでしょうか。そして、仲間同士で力を合わせることでこの難事業を乗り越えたのです。
宮代に広がる巨峰栽培
苗木を植え、収穫までには実に4年を要しました。市場への出荷は、夜のうちに皆で組合に持ち寄って、早朝トラックで北千住まで運びました。初出荷額は当時の田んぼ1反で収穫できる米の価格と同じだったそうです。
翌年は木が成長したので売り上げは倍に、更に翌年は近所の人が評判を聞きつけて買いに来るようになったので直売を開始しました。売り上げは前年の倍以上になりました。この頃から町内での巨峰栽培が広がっていきました。
「難しいからこそやるんです。ぜひ指導してください」と教えを乞いに行った小林さんの情熱に応えてくださった久喜市の野口長左衛門さん。「父は本当に人がいいいというか…」長左衛門さんの息子さんはそう教えてくれました。
明治生まれの長左衛門さんは、新しいものが好きで、大正の終わり頃には、今では久喜市の特産品である梨をいち早く栽培していたそうです。いろいろなことにチャレンジして、その技術を小林さんのような方に惜しみなく教えたといいます。
「昔は人力でやりますから、教えても教えた人が成功しなければ、教え方が悪いということになってしまいます」
人に教えるということも大きなリスクを背負っていたそうです。それでも頼まれれば教えるという姿勢を貫いた長左衛門さんは、本当に親切な人だったのだと想像できます。
受け継がれていく巨峰作りの心
宮代町の特産品として成長した巨峰。収穫の時期になると、新しい村でフルーツフェスティバルが開かれ、巨峰の種飛ばし大会で盛り上がります。町内の保育園児や小学生が農園の見学に行ったり、9月には学校給食で巨峰が提供されています。
今回、当時の詳しいお話を聞かせてくださった西田光作さんは、宮代町で最初に巨峰栽培を始めたおひとりです。西田さんは戦時中代用教員として18歳で教職に就き、その後も、教師の仕事を続けながら家業を手伝い、巨峰栽培を続けてこられました。今はご自宅用に、庭先でシナノスマイルという品種を育てています。巨峰栽培と教師のご経験を活かし地元の小学校でぶどう栽培についての特別授業をされたこともあるそうです。
近年、宅配便やインターネットの普及により、直売所での販売も減少傾向にあります。また、和戸に12軒あった巨峰農家は今では4軒に。農業は機械化が進みましたが、巨峰栽培は90%が手作業です。後継者がいないので規模を縮小する農家も増えています。
農家にとって60数年前とはまた違った厳しい状況もある中、宮代町では、新規に農業を始める人たちが少しずつですが増えています。新規就農者10名で活動する『あぐりねっとみやしろ』もそのひとつ。巨峰の紫をイメージした紫野菜を栽培し、生産だけでなく、商品開発にも積極的に挑戦しています。
きっと、小林さんと仲間たちのチャレンジ精神が宮代の町に根付き、きちんと受け継がれているのでしょう。