和戸に埼玉県で一番歴史の古いキリスト教会があります。日本キリスト教団和戸教会です。毎週日曜日には礼拝が行われ信者が祈りを捧げます。また、コンサートや町の音楽イベントの会場として会堂を開放したりと地域の拠点として人びとが集います。でも、なぜ和戸に県内で初のキリスト教会が設立されたのでしょう?今回はその謎に迫るために明治時代の和戸村へ行ってみたいと思います。
和戸地区は、明治22年の町村合併により須賀村になるまで和戸村でした。
和戸村は明治5年当時、戸数100戸・人口600人余りの寒村だったといいます。
日本は新しい時代を迎え本格的に外国との貿易が始まっていました。
当時の主力商品であった〝生糸″や〝お茶″を輸出する拠点として横浜港が栄え、
横浜港に比較的近い埼玉県では生糸生産のため蚕業(さんぎょう)が盛んになりました。
宮代町でも養蚕(ようさん)を兼業する農家が多数あったそうです。
明治5年 和戸村の名主、小島九右衛門(こじまくえもん)が横浜へ向かったのも
蚕種紙(さんしゅし:蚕の卵を産み付けた紙)を販売するためでした。
このとき九右衛門24歳。若者の目に賑わう横浜はどのように映ったのでしょう。
横浜で見分を広めていた九右衛門でしたが、明治7年頃胸の病に倒れます。
そこで宣教師であり医師であるヘボンの診療を受けたのをきっかけにキリスト教と出会い、入信します。
九右衛門にヘボンを紹介したのが同じ和戸村出身の篠原大同(しのはらだいどう)でした。
漢方医だった大同は九右衛門にさきがけて横浜へ出て、ヘボンのもとで診療所を手伝いながら西洋医術を学んでいました。
九右衛門は横浜へ行く前から西洋文化やキリスト教について是非知りたいという思いがあり、大同に横浜の事情をいろいろ聞いていたようです。
大同は後に郷里へ戻り、ヘボンのように和戸教会で多くの人に施療活動を行いました。
またヘボン膏(ヘボンコウ)という塗り薬を発売し、これは偽物が売り出されるほどの人気だったそうです。
同じく和戸村出身の宮大工、小菅幸之助(こすげこうのすけ)も明治6年九右衛門を頼って横浜へ出ました。
新しい時代に対応すべく西洋建築を学ぶためです。そして九右衛門の勧めでキリスト教に入信します。
幸之助は後に「キリスト教信者の棟梁」として各地で様々な教会関連の建築に携わります。
和戸教会初代会堂の建築も幸之助によるものです。当時彼が作った説教講壇は今も大切に使われています。
このように、小島九右衛門・小菅幸之助・篠原大同の3人が和戸村出身であったことが和戸村にキリスト教がもたらされるきっかけとなりました。
明治6年にキリシタン禁令の高札が撤廃され事実上キリスト教信仰が解禁されたとはいえ、九右衛門、幸之助らによる布教活動は簡単なものではありませんでした。その活動を援助すべく、東京や横浜から外国人宣教師や牧師がやって来たといいます。
数年の布教活動の末、明治11年10月26日、信徒13名により和戸教会が設立されました。
当初、九右衛門の自宅を仮会堂として礼拝が執り行われていましたが、明治15年和戸教会初代会堂を献堂、その後2代目会堂を経て現在の会堂は3代目になります。
和戸教会設立に尽力した九右衛門でしたが、キリスト教入信のきっかけになった胸の病が悪化し、明治13年32歳の若さで亡くなったそうです。
明治時代初期、この辺りを外国人宣教師が歩いていたと思うと不思議な気持ちになります。若くして亡くなった九右衛門や当時の和戸村に想いを馳せながら、和戸教会を訪れてみてはいかがでしょうか。(よん)
<関連リンク>
宮代町デジタル郷土資料/和戸教会
(撮影協力:和戸教会 ※通常は夜の拝観はできません)
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